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Mc.OKAZAKIのミリタリーよもやま話 その7

南海に消えた大英帝国の誇り

毎年12/8の太平洋戦争開戦の日には真珠湾攻撃に関するエピソードをつらつらと書いて来ましたが、考えてみるとなぜか12/10のマレー沖海戦については書いた事がなかったので、今日はマレー沖海戦について紹介してみたいと思います。

ご存知の通り、日本が開戦に踏み切った理由で最大の物は「南方資源地帯の占領・確保」にありました。アメリカから原油の輸出を禁じられて危機に陥った日本は、現状を打破するためにマレー半島近辺に広がる油田地帯の占領を企図していたのです。
日本がマレーの油田を狙う・・・それは開戦前からイギリスも察知しており、これを防ぐために当時イギリス領だったシンガポールに2隻の戦艦を派遣しました。38000tの大型巡洋戦艦『レパルス』と、45000tの新鋭戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』です。

1941年12月8日、日本軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争の幕が上がります。同時にフィリピンやマレー半島にも上陸作戦を展開した日本軍にとって、目の上のタンコブはシンガポールの2隻の英戦艦でした。上陸船団を護るため、高速戦艦『金剛』『榛名』が護衛に付いていましたが、火力・防御力とも英戦艦に引けを取っているのは否めませんでした。
12月8日夕刻、日本の上陸船団を叩くべく2隻の英戦艦は4隻の駆逐艦を率いてシンガポールを出港しました。日本軍にとって最も憂慮すべき事態でした。

当初は艦隊決戦も視野に入れていた日本軍ですが、この2隻の英戦艦を叩くのに動員されたのは戦艦でも巡洋艦でもなく、サイゴンに進出していた85機の海軍中型陸上攻撃機部隊でした。
12月10日昼、イギリス艦隊への日本軍機による波状攻撃が開始されたのです。

戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』。満載排水量44650t、全長227m、速力27.5ノット、38cm主砲10門搭載。竣工から9ヶ月足らずの新鋭戦艦でした。

12:45に初弾を受けた『プリンス・オブ・ウェールズ』は、その後の空襲で魚雷7本・大型爆弾2発が命中。駆逐艦『エクスプレス』に生存者を移乗させた後、14:50に沈没。艦隊司令長官フィリップス大将とリーチ艦長は艦と運命を供にしました。乗員1612名中、327名が戦死しています。

巡洋戦艦『レパルス』。満載排水量38200t、全長242m、速力28.3ノット、38cm主砲6門搭載。艦齢25年とやや旧式の所はありましたが、近代化改装で防御力以外は新世代艦と変わらぬ装備を誇っていました。

『レパルス』も『プリンス・オブ・ウェールズ』同様に激しい空襲に晒されます。13本もの魚雷と1発の大型爆弾を受けた『レパルス』は『プリンス・オブ・ウェールズ』に先立って14:03に沈没。乗員1309名中、513名が戦死しました。
日本軍の喪失機は3機のみ、戦死21名でした。

空襲開始後僅か3時間以内に、英国の誇る2大戦艦が海の藻屑と消えたこの海戦は世界に衝撃を与えました。真珠湾攻撃は“奇襲”だった上に“停泊中”だったために戦艦が航空機に沈められた、と言われていましたが、それからたった2日後に世界最強クラスの戦艦が、航行中に航空機の攻撃だけで沈められたこの海戦は、まさに戦艦の時代が終わり、戦闘の主導権を航空機が握った事を世界に知らしめた衝撃の海戦だったのです。
当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルはその有名な著書『第2次世界大戦史』の中で、“この戦争でもっとも衝撃的だったのは、『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』喪失の報告だった”と述懐する程、激しいショックを受けたと言います。

日本軍の攻撃機は、2隻の戦艦の沈没を見届けると翼を振って英軍将兵の健闘を讃えながら雲間に去ったと英軍は報じています。そして翌日、2機が再び飛来し、日・英両軍の戦死者のために2つの花束を投じたそうです。

戦意を喪失したイギリス軍が降伏し、シンガポールが陥落したのは僅かその5日後の事でした。

(2004・12・10)

 

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