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Mc.OKAZAKIのミリタリーよもやま話 その12

その短い栄光と壮絶な最期 〜重巡洋艦『三隈』

今日6月5日はミッドウェイ海戦から63年目の記念日であります。太平洋戦争の一大転機となった大海戦で、日本軍が主力空母4隻を失う大敗北を喫した戦いなのは今更言うまでもありませんね。
昨年は失われた4空母の話をメインにしたので、今年はこの海戦で失われたもう1隻の日本海軍軍艦・重巡『三隈』について掘り下げてみたいと思います。

『三隈』は『最上』型巡洋艦の2番艦として長崎の三菱重工にて建造され、開戦の4年前に竣工したばかりの新鋭艦でした。竣工当時はまだロンドン海軍軍縮条約の制約があり、重巡の保有数を限られていたために『最上』型は3連装15.5cm主砲5基を搭載する軽巡洋艦として完成しました。
しかしその2年後には日本が条約から離脱、無制限建艦時代に突入すると、その主砲を2連装20.3cm主砲5基に換装し、名実ともに重巡洋艦の仲間入りを果たしました。改装後のスペックは、全長200.6m、排水量13887t、速力34.74kt、20.3cm連装砲5基、12.7cm連装高角砲4基、25mm連装機銃4基、13mm連装機銃2基、61cm魚雷3連装発射管4基、水偵3機搭載と、日本海軍最強の重巡『高雄』型に比肩する能力を持っていました。

余談ですが、主砲換装の際に下ろされた3連装15.5cm主砲は、『大和』型戦艦の副砲に用いられたり、軽巡『大淀』の主砲に用いられたりと、しっかりリサイクルされてたりします(^-^)ノ

開戦時は『最上』型重巡4隻揃い踏みで第7戦隊を編成。第2艦隊に所属し、マレー・インドネシア方面に進出します。戦隊指揮官は後に史上最大の海戦となるレイテ沖海戦で日本の主力艦隊の司令官となる栗田武男少将でした。

開戦以来、破竹の勢いの日本海軍。そんな日本海軍に一矢報いようとする米英蘭豪の連合艦隊が日本の輸送船団への攻撃を企図し、護衛の日本艦隊との決戦が起こりました。昭和17年2月27日夜半のスラバヤ沖海戦です。この戦いでは第5戦隊に所属する重巡『那智』『羽黒』が奮戦し、蘭巡『デ・ロイテル』『ジャワ』と駆逐艦2隻を撃沈し、日本側は駆逐艦3隻が軽微の損傷のみという一方的勝利を得ました。

敗れた連合軍艦隊は、捲土重来を企んで再度日本輸送船団を狙い、そしてやはり護衛の日本艦隊との艦隊決戦が再度発生します。昭和17年3月1日のバタビア沖海戦で、この海戦の主役こそ今日取り上げた『三隈』なのです。

補給を終えた連合軍艦隊は、深夜に56隻からなる日本の大輸送船団を発見。2日前の敗北の雪辱とばかりこれに襲い掛かります。
当初はこれを護衛していた第7戦隊の『最上』と『三隈』が姿を現さず、輸送船『龍城丸』、病院船『蓬莱丸』が大破、輸送船『龍野丸』が座礁するなど、日本軍は大混乱に陥りますが、そこにようやく『最上』『三隈』の2重巡と、駆逐艦『敷波』が駆けつけます。
3月1日0時5分、『三隈』の放った魚雷と20.3cm砲弾により豪軽巡『パース』が轟沈。0時30分頃には『最上』『三隈』の主砲により大火災を起こした米重巡『ヒューストン』が戦闘不能に陥り、駆逐艦『敷波』の魚雷でとどめを刺されました。日本側は輸送船2隻と掃海艇1隻が沈没(味方の誤射)、病院船1隻と輸送船1隻が大破。『敷波』が軽微の損傷を受けました。序盤、『最上』『三隈』が積極的に敵艦隊に向かって突撃していれば輸送船団に損害は出なかった、と栗田少将は非難されましたが、「陛下からお預かりした大事な艦隊を失っては一大事」と言って切り抜け、敵巡洋艦2隻撃沈の戦果もあって不問とされたのです。

しかしこの指揮官の臆病さは、『三隈』の命を縮めさせる事になるのです。

昭和17年6月5日、日本海軍はミッドウェイ方面で機動部隊の空母4隻を失う大敗北を喫します。第7戦隊はその遥か後方からミッドウェイ島攻略を目指して進軍中でしたが、空母が失われた事によって作戦は中止、反転して本土に引き返す事になったのです。その折、敵潜水艦発見の報告によって第7戦隊は対潜運動を開始。発見は誤報だったものの、この運動中に『最上』と『三隈』が衝突事故を起こしてしまいます。『三隈』の損傷は軽微でしたが、『最上』が大破、航行速度が大幅に落ちてしまいます。
そこでなんと戦隊指揮官栗田少将は『三隈』に『最上』の護衛を命じて分離させ、自らは無傷の『鈴谷』『熊野』を率いて全速力で西へ逃げてしまったのです( ̄Д ̄;)

日本機動部隊を壊滅させ、勢いに乗って追撃してくる米機動部隊は、速度が落ちた手負いの2隻を発見、猛攻撃を開始したのです。

航空機の護衛もなく、しかも事故で損傷を受けている2隻は3波に渡る米軍機の空襲を受け、それでも数機を撃墜する奮戦をしています。皮肉な事に、元々損傷の度合が大きい『最上』よりも、動き回って反撃してくる『三隈』に米軍の攻撃は集中します。次々と被弾する『三隈』・・・。

『三隈』の煙突の後ろ半分は爆撃で消失し、後檣、カタパルトなど艦の後部も完全に破壊され、艦上はいたるところ残骸の山となりました。舷側の外板も破損、亀裂を生じて、艦内外いたる所で火災が燃え広がる惨状。
艦長崎山大佐は重傷を負い、副長の高島中佐の指揮の元、総員退艦が下知されます。6月7日午後、遂に『三隈』は力尽きました。あまりの激戦だったために、『三隈』が受けた被害の詳細は明らかになっていません。総員894名の内、生存者は237名。彼らは必死の覚悟で反転して来た味方の駆逐艦によって救助されました。
『最上』も大損害を被り、それでも残骸のようになりながらトラック島基地まで辿り付く事が出来ました。

さて、2隻を置いて逃げた栗田少将ですが、その後しばらく消息不明となって連合艦隊司令長官山本五十六大将もおおいに気をもんだのですが、『大和』以下艦隊主力が帰港してみると、先に『鈴谷』『熊野』を率いて港に戻っている始末(^-^; 連合艦隊司令部をおおいに呆れさせたといいます。

さてこの困った栗田少将というお方ですが、その後なぜか中将に昇進して、冒頭に言った通りレイテ沖海戦で『大和』『武蔵』以下連合艦隊主力を率いて出撃。囮となった他の艦隊の多大な犠牲もあって、レイテ湾に突入して米輸送船団を撃滅するという最大の目的を果たす寸前まで至りながら、謎の反転をして帰還してしまうという不可思議な行動を取ります。
バタビア沖海戦の時に味方輸送船団が攻撃されていながら敵への突入を躊躇したり、ミッドウェイ海戦で損傷した艦を置き去りにして自分だけ逃げ出したりした経緯から、臆病風に吹かれて逃げたようにしかワタシには思えないんですけどねぇ(-_-;

終戦後も生き長らえた彼。取材でレイテの謎の反転を聞かれた事があったそうですが、彼は
「ここで全てを語る訳にはいかない。話せば全てがおかしくなる」
と電波な発言をして、真相を語ろうとしなかったそうです。

(2005・6・5)

 

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