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Mc.OKAZAKIのミリタリーよもやま話 その13

日本のACES・大空のサムライたち

終戦60周年も近い事ですし、久々に軍ネタ行ってみましょうか。しかも今回は趣向を変えて、兵器ではなく人物を扱ってみようかなー、と。

空戦の世界では3機以上の敵機を撃墜すると「ACE」と呼ばれて賞賛されますが、太平洋戦争の日本海軍でも多くのACEが生まれました。今回紹介するのはそのTOP5。皆、主に零戦で挙げたスコアです。


1位:西沢広義中尉(写真左1番目)  生涯撃墜数:87
日本海軍最高のスコアを挙げたエースは西沢中尉。大正9年長野県生まれ(開戦時21歳)。昭和17年2月にラバウル基地に配属になり、同月初撃墜を記録。その後順調にスコアを伸ばして10月までに30機を撃墜。8月7日のガダルカナル島上空での米艦載機との戦いでは、一度に6機のF4Fワイルドキャットを撃墜しています。11月に一度本土に戻った後、昭和18年5月に再びラバウルに進出。10月に本土に戻るまでに更に36機を撃墜。昭和19年にはフィリピン・ルソン島に移り、10月25日のレイテ沖海戦の時には最初の神風特別攻撃隊・関行雄隊の護衛を行い、F6Fヘルキャット1機を撃墜、その後不時着して機体を失っています。
昭和19年10月26日、輸送機で味方基地に戻る途中、その輸送機がミンドロ島上空で撃墜されてしまいます。日本海軍最高のエースは、自らが操縦していない機体で撃墜されてしまうという無念の最期を遂げたのでした。享年24歳。


2位:岩本徹三中尉(写真左2番目)  生涯撃墜数:約80
海軍2位のスコアを挙げた岩本中尉は、空母艦載機部隊のエースでした。大正5年島根県生まれ(開戦時25歳)。海軍入隊時は整備兵だったものの、途中で操縦訓練過程を受けてパイロットとなった異色の存在です。中国戦線に配備された岩本は、零戦の前進機・96式艦戦で活躍、太平洋戦争開戦までに14機の中国軍機を撃墜しました。開戦時は空母『瑞鶴』戦闘機隊に所属。真珠湾攻撃・インド洋作戦・珊瑚海海戦で活躍。その後、陸上基地部隊のパイロット不足を受けてラバウル基地に転属となり、終戦まで陥落しなかったラバウル基地の守護神として、多くの敵機を撃墜し続けました。
短髪が当然の軍内において、その活躍から特例的に髪を伸ばしていたり、家族への手紙の中では200機以上を撃墜したように書かれていたりと、軍人としては珍しく粋で饒舌なエースだったようです。
戦争を無事に生き延びた岩本中尉ですが、戦後の生活に恵まれず昭和30年代に病死しました。


3位:杉田庄一少尉(写真中央)  生涯撃墜数:70
映画『零戦燃ゆ』の主人公・浜田正一のモデルにもなった、ドラマティックなパイロット人生を送った杉田少尉。大正13年新潟県生まれ。開戦時はまだ弱冠17歳で、飛行訓練学校の生徒でした。昭和17年秋、卒業と同時に最前線のソロモン諸島・ブイン基地に配属となり頭角を現し、昭和18年4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官の前線視察時の護衛戦闘機6機の1人にも選出されました。この時まだ杉田は19歳です。
しかしご存知の通り山本長官機は撃墜され、長官も戦死。その責任を負わされるかのように連日杉田は出撃を命ぜられます。死に場所を与えられるかのような過酷な任務の中で杉田は戦い抜き、昭和19年にようやく本土帰還が叶うまで数多の敵機を撃墜し続けました。
本土でも最前線の鹿児島・鹿屋基地に配属された杉田は、新鋭機・紫電改を与えられて活躍を続けますが、昭和20年4月15日、鹿屋基地が米艦載機に奇襲された折、離陸の際を狙い撃ちされて戦死。享年21歳。


4位:坂井三郎中尉(写真右2番目)  生涯撃墜数:64
ご存知、自伝『大空のサムライ』で世界的にも有名な零戦乗り。知名度では海軍エースでも群を抜いています。大正5年佐賀県生まれ(開戦時25歳)。中国戦線で活躍した後、台南空に転属。太平洋戦争開戦時は台湾・高雄基地からフィリピン攻撃に参加しました。昭和17年4月にはラバウル基地に移動し、エースの名に恥じない活躍を見せるものの、8月7日のガダルカナル島上空の空戦で被弾・負傷して本土に帰還。傷が癒えた後は横須賀空に所属。その後硫黄島守備の任務に就きますが、同島陥落直前に本土の343空の教官任務に転属となり、そのまま終戦を迎えました。
負傷療養期間や教官任務が長かったにも関わらず、海軍で4番目に多い撃墜数を誇る坂井の空戦は、芸術的ですらあったと言われています。


5位:奥村武雄飛曹長(写真右1番目)  生涯撃墜数:54
大正9年福井県生まれ(開戦時21歳)。昭和15年10月7日の昆明空襲で初陣を飾り、初陣にして中国軍機4機を撃墜して注目を浴びます。太平洋戦争開戦後はソロモン諸島方面に進出、他のエースたちとスコアを競い合います。昭和18年9月14日のブイン上空戦では1日で10機の敵機を撃墜する活躍を見せたものの、9月22日の空戦で消息不明・未帰還となりました。享年23歳。


・・・とまぁ、多くの敵機を撃墜したACEたちでも、TOP5の内3人までもが戦場の露と消えているんです。無事生き残って、戦後多くの言葉を残した坂井中尉の存在というのは、実は結構貴重だったりするんですね〜。

ちなみに日常的に空戦の起きていたヨーロッパ戦線での撃墜王ってのはスコアの桁が違いまして、ドイツ空軍のエーリッヒ・ハルトマンは何と生涯撃墜数352機(  Д )  ゚ ゚ >ちなみに無事生き延びています。2位のゲルハルト・バルクホルンも301機撃墜のスコアを誇りました(ちなみにこの方も生還)。
意外な事に、米英ソ軍のTOPスコアは40機程度止まりだったりします。物量で押し続ける連合軍と、質で対抗するしかなかった枢軸軍の図式がここにもはっきり出ているかと。

(2005・8・5)

 

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