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Mc.OKAZAKIのミリタリーよもやま話 その18

『桜花』―――その生誕の謎

(Photo by Mc.OKAZAKI)

新年一発目の軍ネタは、あまりにも有名な特攻兵器『桜花』にまつわる不可解な謎を取り上げてみようかな〜、と。

ワタシがこの謎に気付いたのは、実はつい最近だったり。たまたま空母『雲龍』の沈没原因について調べている時に、「昭和19年12月19日、米潜『レッドフィッシュ』の魚雷2本を受け、フィリピンへ輸送中だった『桜花』の爆薬とロケット装薬が誘爆し沈没」との表記を見かけたのです。ここで
「・・・え?という事は昭和19年の内に既に『桜花』は量産され、前戦に運ばれていたのか??」
という疑問にぶつかったのです(ちなみに『桜花』の初陣は昭和20年3月)。

そもそも『桜花』の誕生は、昭和19年6月19日のマリアナ沖海戦で日本機動部隊が壊滅的な打撃を受け、通常の攻撃ではもはや米機動部隊に大きなダメージを与えられない、と悟った軍令部が開発を始めたのがきっかけとされています。しかもこれまで先例の無いコンセプト・先例のない推進機関を持った航空機。開発は一朝一夕では行かないはず(『烈風』『震電』など、開発の遅れから戦争に間に合わなかった機体は数知れず)。ところが企画発案から僅か4ヵ月後には、既に量産機が前戦に運ばれているという謎。

この謎を突き詰めて行くと、更に不可解な事実が浮き上がって来ました。
まずはこの『桜花』プランの考案者・大田正一少尉。少尉という低い階級の者が戦争の方式そのものを変え兼ねないプランを奏上し、それがすんなり通って設計・開発・試作が僅か2ヶ月の間に行われた謎。
そもそも“特攻”という概念自体、昭和19年10月にフィリピン侵攻を企てる米艦隊に対抗するため大西瀧治郎中将が提案したもの、と言われています。その4ヶ月も前に一介の少尉がそれを奏上し、軍令部が動いていたのもおかしな話です。

大田少尉が戦後消息不明となっている事も謎に輪を掛けています。この件には彼の口を塞いだ大物政治家の存在が囁かれたり、戦後調査したところ大田少尉が所属していた405空の名簿に彼の名前が無かったりと、さらに混迷を深めています。一体大田少尉とは何者だったのか・・・?そもそも“少尉という階級も曖昧”説や、名前も“大田正一”説や“太田光男”説まであって、現在でもその存在が謎とされている人物なのです。

“特攻の生みの親”と呼ばれる大西瀧治郎中将は、終戦の日に「多くの若者達を死地に追いやってしまった」と遺書に記して自殺しています。大田少尉失踪の裏側にも、そういった自責の念のような物があったのかもしれません。

(2006・1・8)

 

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