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Mc.OKAZAKIのミリタリーよもやま話 その28

身近にあった幸運艦の残照

お題は旧日本海軍の駆逐艦『初霜』です。
『初霜』は『初春』型駆逐艦の4番艦として1933年1月に起工されました。しかし1,600dの船体に2,000dの『吹雪』型と同規模の火力を搭載する、というコンセプトの『初春』型はその設計にかなりの無理を生じて、上部構造物のバランスが極めて悪い、転覆の危険性のあるトップヘビーな艦となってしまったのです。そこで建造中だった3番艦の『若葉』以降は設計をやり直し(1番艦『初春』2番艦『子の日』も同様に改装)、結局砲撃力は『吹雪』型の15%減、雷撃力は30%減、速力は12%減と、中途半端な性能の艦となってしまいました。駆逐艦としては言わば“失敗作”です。

そんな『初春』型(計6隻建造)ですが、太平洋戦争中は北はアリューシャン列島から南はソロモン諸島まで、幅広い活躍を見せています。但し、戦闘力・速力・航続力が他の駆逐艦よりも劣っていたので、空母機動部隊の随伴といった花形の役目は大戦後半まで巡って来ず、もっぱら船団の護衛、輸送任務、哨戒任務に携わっていました。

そんな『初春』型の6隻も次々と戦場の露と消えて行き、1945年を迎える時には、既に『初霜』しかその姿は残っていませんでした。
『初霜』は実に10回もの海戦や作戦に参加し、幾度か損傷したものの健在で、幸運艦の1隻として名が知られていました。
そんな『初霜』に最も厳しい作戦への参加が伝えられます。戦艦『大和』を護衛して、沖縄海域に突入せよ・・・そう、菊水1号作戦です。
戦艦『大和』、軽巡『矢矧』、それに駆逐艦8隻の艦隊は、総数1,000隻以上の米艦隊に殴り込みをかけ・・・そしてその途上で艦載機の反復攻撃を受けて『大和』は撃沈されました。

『大和』爆沈の時、その最も近くにいたのが『初霜』だったのです(写真一番右の駆逐艦)。生き残ったのは駆逐艦4隻のみでした。その内『涼月』は艦首を破壊されて大破、『冬月』も直撃弾1発を受けて小破状態。かの『雪風』ですら至近弾1と不発弾1を受けて戦死3名を出しましたが、『初霜』だけが唯一完全に無傷だったのです。最も性能的に劣っていた艦が無傷で生き残ったのです。何と言う皮肉でしょう。

このまま終戦まで生き残っていれば、『初霜』は『雪風』と並んで「帝国海軍の幸運艦」として名を残していたでしょうが、残念ながらそうはなりませんでした。
終戦まであと16日だった7月30日、宮津湾で空襲を受けた『初霜』は回避運動中に機雷に触れてしまって大破。沈没を避けるために浅瀬に乗り上げたのでした。

艦の後ろ半分が没した形で『初霜』は終戦を迎えました。戦後、生き残った艦の多くは賠償艦として各国に没収されてしまいましたが、『初霜』は損傷が酷かった事からそのまま現地で解体される事となったのです。こうして『初霜』は永久にこの世から姿を消したのでした。

しかし、『初霜』の忘れ形見が案外近くにある事を最近知りました。
両国駅の近く、墨田区の山田記念病院に、その主錨が残されていると聴き、先日これを訪ねてみました。

意外な所に意外な物があるものです。それは確かに病院の入り口に展示されていました。『大和』の最期を最も近くで見つめたこの主錨は63年を過ぎてもなお、その存在を静かに誇っていました。

実はこの病院の名誉院長さんが、『初霜』の軍医長だったそうです。その縁で解体された『初霜』の主錨が贈られ、今に至るとの事。ちなみにこの山田記念病院のシンボルマークも錨のマークとなっています。

呉や横須賀とは違った趣の、下町の病院にある戦史のレリーフ。『初霜』が見つめて来た太平洋戦争の横顔を垣間見る事が出来た気がします。

(2008・7・15)

 

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