Mc-LINERS特設 Mc.OKAZAKIのミリタリーよもやま話 その28 身近にあった幸運艦の残照 |
お題は旧日本海軍の駆逐艦『初霜』です。 そんな『初春』型(計6隻建造)ですが、太平洋戦争中は北はアリューシャン列島から南はソロモン諸島まで、幅広い活躍を見せています。但し、戦闘力・速力・航続力が他の駆逐艦よりも劣っていたので、空母機動部隊の随伴といった花形の役目は大戦後半まで巡って来ず、もっぱら船団の護衛、輸送任務、哨戒任務に携わっていました。 そんな『初春』型の6隻も次々と戦場の露と消えて行き、1945年を迎える時には、既に『初霜』しかその姿は残っていませんでした。 『大和』爆沈の時、その最も近くにいたのが『初霜』だったのです(写真一番右の駆逐艦)。生き残ったのは駆逐艦4隻のみでした。その内『涼月』は艦首を破壊されて大破、『冬月』も直撃弾1発を受けて小破状態。かの『雪風』ですら至近弾1と不発弾1を受けて戦死3名を出しましたが、『初霜』だけが唯一完全に無傷だったのです。最も性能的に劣っていた艦が無傷で生き残ったのです。何と言う皮肉でしょう。 このまま終戦まで生き残っていれば、『初霜』は『雪風』と並んで「帝国海軍の幸運艦」として名を残していたでしょうが、残念ながらそうはなりませんでした。 艦の後ろ半分が没した形で『初霜』は終戦を迎えました。戦後、生き残った艦の多くは賠償艦として各国に没収されてしまいましたが、『初霜』は損傷が酷かった事からそのまま現地で解体される事となったのです。こうして『初霜』は永久にこの世から姿を消したのでした。 しかし、『初霜』の忘れ形見が案外近くにある事を最近知りました。 意外な所に意外な物があるものです。それは確かに病院の入り口に展示されていました。『大和』の最期を最も近くで見つめたこの主錨は63年を過ぎてもなお、その存在を静かに誇っていました。 実はこの病院の名誉院長さんが、『初霜』の軍医長だったそうです。その縁で解体された『初霜』の主錨が贈られ、今に至るとの事。ちなみにこの山田記念病院のシンボルマークも錨のマークとなっています。 呉や横須賀とは違った趣の、下町の病院にある戦史のレリーフ。『初霜』が見つめて来た太平洋戦争の横顔を垣間見る事が出来た気がします。 (2008・7・15) |
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