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Mc.OKAZAKIのミリタリーよもやま話 その31

人を運ぶはずが飛行機を運び、飛行機を運ぶはずが人を運び

今日は軍ネタです。お題は護衛空母の『大鷹』『冲鷹』『雲鷹』、それに軽空母の『鳳翔』です。

1937年、日本郵船社が3隻の豪華客船を建造するにあたり海軍は多額の助成金を出す事にします。これは戦争の火種がくすぶり始めていた当時、有事の際にはこの船を軍用として徴用するよ、という条件の下の出資でした。
そして日本郵船は3隻の豪華客船『新田丸』『八幡丸』『春日丸』の建造を開始、『新田丸』『八幡丸』が相次いで竣工します。

(写真は『八幡丸』)
しかしこれらの豪華客船は、当初就航する予定の欧州航路が1939年の第2次世界大戦の勃発によって事実上失われたため、北米航路に就く事になります。
1940年、日米間の緊張が度を増すに当たり、遂に海軍はこの3隻の徴用を決定。未だ建造中だった『春日丸』を空母に改装して開戦直前の1941年9月に竣工させます。また、『新田丸』『八幡丸』も相次いで改装工事に入り、『新田丸』は1942年8月、『八幡丸』も1942年5月に空母への改装を完了し、日本海軍籍に編入されます。

『春日丸』は空母『大鷹』と名を改め、『新田丸』は空母『冲鷹』に、『八幡丸』は空母『雲鷹』として、ミッドウェイ海戦で主力空母4隻を失った日本海軍の貴重な戦力として配備されたのです。

しかしこの3隻の空母ですが、実際はとても主力空母として前線で運用する事が出来ませんでした。
その理由は「遅い」「小さい」「脆い」・・・まぁ作っている時点で気付きそうなもんですが(;´∀`)
そのスペックを主力空母の『翔鶴』級と比較すると、

『翔鶴』 全長250m 搭載機84機 速力34・2ノット
『大鷹』 全長173・7m 搭載機27機 速力21ノット

その航空戦力は3隻でようやく主力空母1隻分程度。しかも飛行甲板が短いので、大型機・重武装機の発着が不可(離陸距離が長く必要なため)。遅いので他の空母と足並みを揃えられない・・・まさに三重苦を背負った空母でした。

で、この三姉妹の使い道はと言うと、格納庫と飛行甲板いっぱいに飛行機を積んで、本土と前線の間の航空機輸送任務に従事する事になったのです(当然発艦は出来ませんのでクレーンで積み下ろし)。高い金を払って助成金を出して、長い期間をかけて改装した艦の使い道は、結局輸送艦と変わらなかったという・・・(^_^;

それでもこの3隻、本土〜トラック島の間をせせこましく駆けずり回り、何と2,000機近い航空機の輸送を行いました。そして3隻とも、その輸送任務中に航路上に待ち伏せていた米潜水艦の雷撃によって1943〜44年の間に撃沈されてしまいました。南無。

そして今回取り上げるもう1隻の空母は『鳳翔』。この艦、「世界で最初に竣工した、空母として1から作られた艦」というちょっと面倒くさい称号を持っています。
世界最初の実用的空母と言うとイギリスの『フューリアス』になるのですが、これは大型巡洋艦を改装して作ったので、最初から空母として作られた訳ではありません。また、世界で初めて1から空母として作られたのは同じくイギリスの『ハーミス』ですが、建造途中に予算の関係で工事がストップしたために工期が遅れ、『鳳翔』に先に完成されてしまったのです。あぁ、ややこしや、ややこしや。

という訳で日本初の空母でもあるこの『鳳翔』、太平洋戦争開戦時には既に旧式化していた上に、元々実験艦としての要素も多かったので船体が小型過ぎ、しかも速力が遅いので戦力になりませんでした。
そのために『鳳翔』は戦争の大半の期間を瀬戸内海でルーキーパイロットの訓練任務に従事し、殆ど外洋に出る事が無かったのです。
結果、日本で最も旧式で性能が劣る空母であるこの艦は、終戦時無傷で生き残ったのです。

『鳳翔』には最後の任務が残されていました。その格納庫と飛行甲板を利して、戦後の引き揚げ船として多くの兵員や民間人を運んだのです。
その任を終えた『鳳翔』は、1947年に28年の長い艦齢を終えて解体されました。


豪華客船として多くの人を運ぶはずだった『新田丸』『八幡丸』『春日丸』は、飛行機の輸送任務で活躍し、空母として飛行機を運用するはずだった『鳳翔』は訓練任務に明け暮れて、最後は多くの人を乗せるのに役立ったというのは何とも歴史の皮肉に思えてなりませんね。

(2010・1・15)

 

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