戦史博物館「遊就館」レポート
画像はサムネイルです。クリックすると大きな画像が出ます
全てサイバーショットUにて撮影しました



爽やかな秋晴れの10/14、靖国神社内にある戦史博物館「遊就館」に行ってきました。
ちなみに公式HPはこちら
2002年の7月にリニューアルオープン。その目玉は何と言っても実物の零戦52型で、他にも彗星33型などの実物や、多くの模型・展示品があるとの事で前から行きたかったのですが、ようやく足を運ぶ事が出来ました>家から電車を乗り継いでも30分かからないんですけどね(^_^;


都営地下鉄九段下駅から靖国神社へGo。その時ちょっと驚いたのが九段下駅・靖国神社側出口のバリアフリー化。


普通、エスカレーターは出口までは繋がっていない(雨の進入を防ぐため)のですが、ここはちゃんと出口までエスカレーターが繋がっています。



途中の階段もご覧の通り、ホームから出口までずっとエスカレーターが繋がっていています。やはりお年寄りの参詣者の事を考えての事なんでしょうね。感心感心。


ま、見ての通り人もまばらで天気も良く、ゆっくり参道を通って境内へと向かう事が出来ました。



拝殿もこんな感じ。ま、神社が混み合うのなんて祭りか正月くらいなんでしょうけど。
ちゃんとお賽銭を入れて参詣してきました。昨今靖国参拝がどうのこうのと言う左派の方々もいますが、今の日本の礎となって死んでいった人々に敬意を払うのは、むしろ当然の事だと思います。特に我々若い世代の人間は、彼らの犠牲を無にしないためにも、日本という国を正しい方向に導いていく義務と責任があると思っています(おー、珍しくマジメな事言ってるなー、俺)。
戦史や兵器に造詣の深い人(自分も含みます)に対して“戦争賛美者だ”みたいに言う方もいますが、戦史を学んだ人間は、みなその愚かさや悲惨さを深く知っている人間でもあります。何の知識もない人(原爆展とかを見て戦争の全てを知ったつもりになっているオバサンとか)が声高に「戦争反対!」と叫ぶよりも、戦史を学び、その悲惨さを深く知った人間が訴える反戦の言葉の方が重い、と自分は信じています。


・・・と、堅い話はここまで。本題の遊就館に行ってみましょう。


リニューアルからまだ3ヶ月という事もあり、非常に綺麗な建物でした。秋の日差しに白壁が輝いて見えます。
驚いたのは、お年寄りの方よりも外国人の方が多かった事。それに意外にも若い女性が結構いました。カップルも多く、デートスポットとしても機能しているのはちょっと考え付きませんでしたね。他にも親子連れ(3世代で来て、おじいちゃんが孫に説明する微笑ましい風景も多々見られました)などで、それなりに入場者は多かったです。
ま、中には展示品の落下傘を指差して、「わしもこれでビルマのイギリス軍の真っ只中に降り立ったんじゃ」なんて話し出すツワモノの爺さんもいましたが(^_^;




入館してすぐに目に入るのが、いきなりド本命の零戦52型。ラバウル海軍飛行場に放棄されていた零戦を持ちかえって補修したもので、レプリカとかではなく正真正銘ホンモノ。ちゃんと栄21型エンジンも搭載しており、「実はガソリン入れたら飛べるんじゃねーの?」とマジで思いました。思っていたよりも小さく、いかにも小回りの効く軽戦闘機、という印象でした。


零戦のすぐ奥に展示してあったのが陸軍の15cmカノン砲。カノンといってももちろんこれとは関係ありません(^_^;ベタベタ
沖縄の攻防戦で実際に使われた物で、砲身のあちこちに銃弾を受けた跡があるのが生々しかったです。沖縄戦後米軍に鹵獲され、その後沖縄に返還され、靖国神社に奉納されたそうです。

順路に従って進んでいくと、古代から中世を経て、近代の戦争の歴史が順を追って展示されていました。ま、この辺は端折って観てました(日清・日露戦争あたりは詳しく観ましたが)。それでも幕府海軍副総裁・榎本武楊の軍服(ナポレオン三世が徳川慶喜に送り、慶喜が榎本に下賜されたもの)なんかには、歴史の一部がここにある、という感動を覚えたものです。
大東亜戦争関連の展示物も多くありました(この辺の展示物の撮影はちょっと出来ませんでした)。山本五十六連合艦隊司令長官が南雲中将(真珠湾攻撃の司令官)に宛てた肉筆の手紙や、その山本長官が戦死した際に乗っていた1式陸攻の破片、“加藤隼戦闘隊”で有名な加藤中佐の遺品、“特攻隊の生みの親”大西瀧治郎中将が終戦の日に自刃した際に用いた軍刀、特攻攻撃の前線指揮官で、終戦の日に自ら特攻機に乗って散った宇垣纏中将の辞世の句など、展示物の多さとその価値とに大いに驚かされました。
さらに奥には国の為に死んでいった方々の遺影が3部屋に渡ってズラリ。数千人、いや数万人分はあったでしょうか。「国の為に死んでいった人」なら誰でも掲示しているようで、古くは明治維新期の人物(高杉晋作や中村慎太郎など)までありました。従軍看護婦として戦病死した若い女性の遺影も多く展示されており、また、特攻隊の方々の遺書などもあり、ちょっと胸が痛くなる展示でした。

そこを過ぎるとメインの大展示場へ。ここはちょっと凄い展示となってました。





まず展示のメインは彗星艦上爆撃機11型。液冷エンジンを搭載した高速艦爆として期待されるも、そのエンジンの不調で大きな活躍が出来なった悲運の爆撃機。展示されている機はヤップ島のジャングルに不時着した、これも正真正銘ホンモノの機体。ちゃんとプロペラが回るのには驚きました。



ロケット特攻機の桜花も展示されていました。6mの小さな機体に1200kgの爆薬を搭載、時速876kmの超高速で敵艦に体当たりする人間爆弾です。このような兵器を作った当時の軍部を愚かしいと思うと同時に、このような手段を使わざるを得ない当時の状況の悲劇、双方に思いを巡らされる機体です。この桜花と搭乗員を主役にした松本零士原作のOVA『ザ・コクピット』の第2話『音速雷撃隊』は本当に泣けます。まだ観てない方はぜひご覧下さい(ちなみにまだDVD化されていない作品ですが、大きなレンタルビデオ店ならビデオが置いてあると思います)。



ちなみに航続力のない桜花はこのように1式陸攻の腹に抱かれて出撃します。しかし、殆どの桜花は敵艦隊に辿り着く前に1式陸攻もろとも撃墜されてしまいました。桜花が敵艦隊に突入できたのはたった1機のみだったと言われています。その1機が突っ込んだ米駆逐艦は一撃で木っ端微塵になったそうですが・・・。ちなみに桜花攻撃隊の戦死者は722名にのぼったそうです。


こちらも有人特攻兵器の人間魚雷回天。1550kgの爆薬を弾頭とした巨大魚雷に人間が乗り込み操縦、敵艦に体当たりするという、これも非人道的ながら一撃必殺の究極兵器。米艦隊が終結するウルシー泊地に突入、大型タンカー1隻を文字通り一撃で葬ったのが唯一の戦果と伝えられており、その殆どが母艦である潜水艦もろとも沈められたそうです。
終戦直後、米軍との連絡のためフィリピン・マニラに赴いた日本軍使に対し、マッカーサー司令部のサザーランド参謀長は、開口一番「回天を搭載し作戦中の潜水艦は何隻か。直ちに作戦を停止させよ」と命じたそうです。この事は、回天が如何に米軍に恐怖と脅威を与えていたか、を物語る証左と言えるでしょう。



回天の断面図です。思ったよりは大きく、人ひとりが動くのにはそれほど不自由という感はなかったです。ただ、その大きさに似合って搭載されていた爆薬の量と、それによる破壊力の大きさを想像すると震撼しましたが。



回天を搭載した伊号潜水艦の模型です。第2次大戦ではドイツのUボートが一時イギリスの海上交通を封鎖し、戦局に大いに貢献した時期もあったように、潜水艦は戦術的のみならず、戦略的にも非常に重要な兵器と言えるでしょう。それは現在でも変わっておらず、東西冷戦が終局した今でも、たった1隻で世界の主要都市の多くを廃墟に出来る戦略原潜(例・米のオハイオ級原潜は24発の潜水艦発射弾道ミサイルを搭載)が世界中の深海にウヨウヨしているのが現実です。


日本陸軍の主力戦車であった97式中戦車です。中戦車と言いながら、外国からすれば軽戦車並みの装甲で、米軍のシャーマン戦車などには全く歯が立たない戦車でした。ジャングルや山岳地帯を走れるようにこのような設計思想になったそうですが、兵士からは“走る棺桶”と言われ、非常に評判は悪かったそうです。


戦艦陸奥の14cm副砲(実物)です。戦艦陸奥は大和級が完成するまでは日本海軍最大最強の戦艦でしたが、昭和18年に広島県呉の柱島泊地にて火薬庫の爆発事故で沈没。一度も敵と砲火を交えないままに沈没した、ある意味日本海軍で最も不幸な軍艦です。
この副砲は戦後引き揚げられた陸奥より取り外された物です。



陸奥の勇姿を現した模型です。多くの模型が展示されていましたが、この模型が小さいながら最も精密に作られており、出来は一番だったと思います。



右が大和の、左が武蔵の46cm主砲の砲弾です(中央は三笠クラスの30cm主砲弾)。後方の肖像画は在りし日の大和です。
大和級の主砲弾は、実は敵艦に直接降り注ぐのではなく敵艦の手前に落ち、魚雷のように進んで行って敵艦の最も弱い喫水線下に命中するように作られていました。意外でしょ?



大和の主砲発射音を聞く事が出来る、との事なので早速聴いてみました。ありきたりな表現になってしまいますが、まさしく“雷が轟くような”砲声です。いつ録音された物かは不明との事ですが・・・。



武蔵の在りし日を伝える青銅製の像です。戦争や兵器の可否について論じる前に、この大和級戦艦はやはり“美しい”と思います。造形美・機能美に溢れた精悍なフォルム。これほど美しく、また巨大な戦艦を作り上げた当時の造船所の方々には頭が下がる思いです。



展示されている“模型”では最大だったのがこの1/50という巨大サイズの空母翔鶴。某モデルサークルが2年掛かりで完成させたという力作。翔鶴は真珠湾攻撃にも参加した歴戦の空母で、その後珊瑚海海戦で世界初の空母VS空母の戦いを演じ、ミッドウェイ作戦にはその時の損傷のため参加できず、故にミッドウェイの悲劇を逃れられました。その後南太平洋海戦でも活躍しましたが、日本軍空母9隻VS米軍空母15隻が激突した史上最大の空母決戦マリアナ沖海戦で敵潜水艦の雷撃を受け、運悪く重油タンクに魚雷が命中、大火災を起こして沈没しました。重油の炎は周辺の海域まで火の海にしたために救出の艦も近寄れず、乗組員の殆どが戦死という悲劇となりました。


重巡摩耶。これも大きな模型でした。摩耶は高雄級重巡洋艦の3番艦で、幾多の海戦に参加。マリアナ沖海戦で空襲により小破した際に大規模な対空兵装を施し、無数の高角砲・機銃を備えた防空巡洋艦に生まれ変わりました。しかし、皮肉にも4ヶ月後のレイテ沖海戦で敵潜水艦の魚雷4本をほぼ1箇所に集中的に受け艦が真っ二つに折れ、その対空兵装を敵機に向けて撃つ事無く沈没しました。その翌日、米軍艦載機の空襲によって同じ艦隊の戦艦武蔵が沈没。艦隊の面々はきっと「摩耶が生き残っていれば・・・」と思ったでしょう。


重巡青葉。ともかく戦いに出ると必ず損傷する事で有名な艦でしたが、それでもそのたびに不死鳥のように蘇った艦です。最期は燃料もなく繋留されていた呉沖で米軍艦載機の空襲を受けて大破。座礁するも最期まで沈没だけはしなかった、まさに不死身の艦でした。


駆逐艦清霜。日本海軍の艦隊型駆逐艦の最終発展型・夕雲クラスの艦で、レイテ沖海戦に参加。シブヤン海で戦艦武蔵が敵艦載機の集中攻撃を受けて損傷、艦隊に着いて行けなくなった後も重巡利根とともに武蔵から離れず護衛を続け、その最期を看取って生存者の救出を行った艦です。その2ヶ月後、重巡1隻・軽巡1隻・駆逐艦6隻でフィリピン・マンガリン泊地の敵輸送船団に夜襲をかける「礼号作戦」に参加。作戦は成功し、輸送船4隻に損害を与えましたが、この作戦を成功させるため清霜は敵機を引き付け、唯一の沈没艦となりました。靖国神社に奉られるだけの、殊勲艦と言えるでしょう。


駆逐艦秋月。日本海軍の新兵器・防空駆逐艦秋月型の1番艦です。駆逐艦にしては大型で、最初米軍は「新型軽巡」と認識していたそうです。デビュー戦の南太平洋海戦で多くの敵機を撃墜、また、同時に3機で攻撃を仕掛けて来たB−17爆撃機を一撃で2機同時撃墜などの離れ業をやってのけ、以後米軍にマークされる事となります。最期はエンガノ岬沖海戦で敵機13機を撃墜する活躍を挙げるも、米潜水艦の魚雷を受け沈没。同型艦の初月もこの海戦で沈没するのですが、その凄まじい戦いぶりはここ参照。


日本海軍の秘匿兵器・93式酸素魚雷です。各国の魚雷の直径は53cmが主流でしたが、この魚雷は63cmあり、破壊力は1・5倍と言われました。しかも酸素を燃焼させて進むので航跡を残さないため、米英海軍に恐れられました。その破壊力を如何なく発揮したのがルンガ沖夜戦。日本側は駆逐艦8隻のみ。米軍は重巡4隻と軽巡1隻、駆逐艦6隻。圧倒的不利な状況ながら、日本軍が放った36本の酸素魚雷が次々に米重巡を撃破、重巡1隻沈没、3隻大破の大損害を出して撤退しました。一方、日本軍の被害は駆逐艦1隻沈没のみでした。


日本海軍の艦艇ほぼ全てに搭載されたベストセラー兵器、25mm対空機関砲です。


同じく日本陸軍でみんなが持ってた(?)ベストセラー歩兵銃、38式です。「38式」とは明治38年正式採用だったからなのですが、正直それだけ長い間新型銃に取って代わらずに使われてきた事に驚きを隠せません。


大東亜戦争末期、陸軍の新型戦闘機だった5式戦の残骸です。この機は来襲するB−29を迎撃せんと出撃したものの、反撃にあって撃墜され、水田に落ちた機体の部品を回収したものだそうです。左がひしゃげてゴムの中が露出しているタイヤ、右は折れ曲がったプロペラの一部です。墜落の衝撃を物語る、衝撃の品でした。


・・・なんじゃこりゃ?と思った方も多いはず。戦史に詳しいつもりのワタシもこれは知りませんでした。大戦末期に日本軍が考案した兵器・・・と言うか戦法で、潜水服を来て潜り、敵艦の真下から槍の先に付けた機雷を叩きつける「伏龍」という作戦だそうです。特別な操縦などの技能が必要ないので少年兵でこの部隊を編成し、訓練していたそうですが、潜水服の機能が不充分で多くの溺死者を出したそうです。悲劇と言うよりは喜劇のようですが、全く笑えないのも事実です・・・。



・・・と言った感じで大展示場を後にしました。

その後、何かお土産でも買って行こうかな?と売店に寄ってみたのですが・・・




さすがは靖国神社の売店だなオイ(^_^;
大和グッズと零戦グッズのオンパレード。それに軍艦旗・国旗・Z旗。しかも模型まで売ってるし。
そんな中目に止まったのがこれ

写真だと分かりにくいですが、棚の上段が「海軍珈琲の豆」、中段が「レトルト海軍カレー」。当時と同じ豆、そして同じ調理法で調理したそうで。買いそうになりましたが、食べ物は後に残らないなーと思って却下ヽ(´ー`)ノ

そうそう、こんなのも売ってました。ぬいぐるみなんか売ってるよー、と思ってよく見たらなんとのらくろ(;´д`)いや、ちょっと欲しくなりましたが。

売店も見終わったら少々小腹もすいてきました。そんな時丁度良く目の前に現れた軽食店。

よくメニューを見ると・・・


海軍カレーがあるじゃあーりませんか!

あの山本五十六も愛して止まなかった海軍名物・海軍カレー。ワタシも早速注文しました。

ま、普通のカレーでしたよ。別に軍艦旗が差してあるワケでもないし(^_^;
小麦粉が多い、いかにも日本のカレーでした。肉はチキン。ジャガイモがやや多めでしたね。そんなに辛くないです。ただ、この写真を撮影しているのを回りの店員さんやお年寄りのお客さんが不思議そうに見てましたが(;´д`)


・・・といった感じで一通り巡回しました。古代や中世の所を端折りましたが、それでも入館から3時間近く経っていました。入場料800円は少し高めですが、それだけの内容がある事は分かっていただけたと思います。また、軽食店と売店、それに零戦と15cmカノン砲が展示してあるロビーは入場無料なので、海軍カレーを食べながら零戦を見に行くだけでも良いのではないでしょうか(^-^