2012/09/04 (火)
5330km、日本への遠い旅路の果てに・・・ 首なし駆逐艦『天津風』の奮闘
ようやく貯めていた軍ネタを書き連ねる時間とスペースを得たので、数年ぶりになりますが軍ネタもぼちぼちと再開して行きたいと思います。 復帰第1回目のお題は、旧日本海軍の駆逐艦『天津風』です。『天津風』はかの有名な『雪風』と同じ『陽炎』型駆逐艦の1隻で、太平洋戦争の開戦1年ちょっと前の1940年10月26日に竣工しました。排水量2,033d、速力35ノット、乗員239名、12.7センチ連装砲×3門、61cm魚雷発射管4連装×2基(竣工時性能)を持つ最新鋭駆逐艦である陽炎型は、開戦当初から機動部隊の直衛・巡洋艦と連携した水雷打撃部隊・更には輸送船団の護衛と八面六臂の活躍を見せます。 『天津風』も例外ではなく、開戦当初はインドネシア方面で米潜水艦2隻を撃沈するなど活躍した後はミッドウェイ作戦に参加。その後は「駆逐艦の墓場」と呼ばれるようになるソロモン諸島のガダルカナル島を巡る戦いに投入され、激戦となった第三次ソロモン海戦においては第二缶室や艦上部構造物に多数の命中弾を受けて戦死者45名、負傷者31名を出す大被害を被っています。 その後、修理のために本国に帰還した『天津風』はトラック島へ進出して船団護衛と輸送任務に従事。再び本国に帰還した後、『天津風』は戦局が悪化した1944年1月に軽空母『千歳』や駆逐艦『雪風』と共に船団を護衛してシンガポールに向かいます。
1月16日、南シナ海洋上で米潜水艦『レッドフィン』を発見した『天津風』はこれに攻撃を行うも、逆撃に転じた『レッドフィン』から魚雷攻撃を受けた『天津風』は左舷第一煙突下に直撃を受けて第一缶室が完全に破壊され、更に荒天のために被雷箇所から船体が切断され、艦橋を含む艦の前半分を喪失。乗艦していた第十六駆逐隊司令官の古川文治大佐はじめ34名が波間に消えます。 船体断裂前にかろうじて後部に移った田中正雄艦長は直ちに救援緊急電を発信しましたが、艦橋を失って海図が無いために発信した被雷位置が100浬もずれており味方に1週間も発見してもらえず、1月23日にようやく味方機に発見された『天津風』の後部船体は、駆逐艦『朝顔』によって曳航されて1月30日に無事サイゴンに入港。この戦いで『天津風』は74名の戦死者を出しました。 そのままサイゴンで9ヶ月近くも行動不能だった『天津風』は、応急修理の後に11月15日にシンガポールに回航され、そこで2ヶ月をかけて艦首部分の再生工事を行います。修理内容は切断箇所から先に仮艦首を装着し、その上に仮設艦橋と前部マストを設置。これにより後部主砲2基の戦闘能力を取戻し、13_単装機銃3門と25_単装機銃2門を増設、主ボイラー1基の復旧により20ノット強の速力が出せるようになりました。その時の姿を模型でスクラッチされた方がいまして、その画像を入手したのでここで紹介します(すいません、作者の方は不明です)。
一度は死んだ艦をここまでして再生した努力は見上げた物です。それでも速力と戦闘力は他の海防艦(護衛艦)と遜色無いスペックだったのは、『天津風』の基本性能の優秀さと、『天津風』に試験搭載された新型高温高圧ボイラーによるものでした。 しかしこの新型ボイラーの存在が『天津風』の寿命を縮める事となりました。海軍本営の決定で、新型ボイラーを搭載した『天津風』は、修理のために本国に帰される事となります。既にフィリピンを陥落された日本海軍にとってシンガポールから日本までの5330kmの旅路は、敵の制空権下を突破する自殺行為の航海でした。 1945年3月19日、『天津風』は7隻の輸送船団を護衛する7隻の護衛艦の1隻としてシンガポールを出港。道中、フィリピンを基地とする米陸軍機の度重なる空襲を受けて輸送船団は全滅。『天津風』はかろうじて4月2日に香港に入港して難を逃れます。
しかし香港もまた安寧の地ではなく、翌3日には軍港が50機からなる米陸軍機の空襲を受けます。『天津風』は同地に在港していた艦艇で新たな船団(輸送船2隻、護衛艦5隻)を組んで本土に向けて出港しますが、この船団も米陸軍機の格好の餌食となってしまいます。5日には2隻の輸送船が沈められ、生存者を乗せた護衛の1隻が香港に戻ります。残った4隻の護衛艦も次々と喪われ、孤立した『天津風』はたった1隻で本土を目指して孤独な航海の途に就くのでした。
そんな『天津風』を米軍は見逃しませんでした。6日、米陸軍機は『天津風』を狙って空襲を加えます。18機のB-25に襲われた『天津風』は3機を撃墜する活躍を見せるものの、スキップボム(石の水切りの要領で跳弾させた爆弾を当てる水平爆撃の技術。写真の右に跳弾させた爆弾が写ってます)で500ポンド爆弾を3発受けて主砲は全て破壊され、無線機・機関・舵が故障。火災が発生して左舷に傾斜すると艦は漂流を始めます。 それでも乗員たちは『天津風』を見捨てませんでした。人力操舵でアモイ沖合まで辿り着かせる事に成功します。しかしここで遂に座礁してしまい、『天津風』は完全に航行不能となってしまいます。 更に現地の盗賊の襲来まで受けた乗組員たちは『天津風』の放棄を決定。物資を陸揚げした後、『天津風』は搭載していた爆雷を自爆させて、長い旅路の途中でその生涯を終えるのでした。この本土への最後の旅での生存者は161名、戦死者は39名でした。
本日のBGM:旅の途中(『狼と香辛料』OP)
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