2012/09/14 (金)
降り注ぐ137発の爆弾を全て回避した神業の操艦技術!
今日の軍ネタは日本海軍の駆逐艦『谷風』です。
『谷風』は有名な『雪風』や先週このコーナーで取り上げた『天津風』と同じ陽炎型駆逐艦の1隻で、開戦の7ヶ月ちょっと前の1941年4月25日に竣工しました。航続距離の長い新型艦という事もあり、『浦風』『磯風』『浜風』『谷風』の陽炎型4隻で編成された第17駆逐隊は、真珠湾攻撃に向かう南雲機動部隊の一員となって空母部隊を護衛。見事、その任務を達成します。
その後も第17駆逐隊は機動部隊の直衛任務に就き、ウェーク島攻略、ラバウル攻略、ポートダーウィン空襲、ジャワ島攻略、セイロン沖海戦の各作戦に従事。東はハワイ沖、西はインド洋、南はオーストラリア北岸と、広大な戦域を機動部隊と共に行動出来るだけの航続力を持つ陽炎型駆逐艦ならではの活躍と言えます。
そして1942年6月5日、南雲機動部隊は運命のミッドウェイ海戦を迎えます。連戦連勝の奢りと索敵の不徹底、そして決定的な不運も重なって主力空母4隻を一挙に失ったこの海戦でも空母を直衛していた『谷風』ですが、為す術も無く撤退するほかありませんでした。
しかし機動部隊が退去した戦場に向かった偵察機から、撃破された空母のうち『飛龍』がまだ沈まずに浮いていて、その飛行甲板上に生存者がいるとの報告がもたらされます。
そこで『谷風』に非情で無茶な命令が下されます。
「戦場に戻って『飛龍』の生存者を救出し、『飛龍』を雷撃処分せよ」
勝ち戦に乗って米軍機動部隊が追撃を掛けているのは明白であり(現に逃げ遅れた重巡『三隈』『最上』が空襲を受け、『三隈』が沈められています)、そこに戻るのは自殺行為も同然でした。しかしこの任務を勝見基艦長はじめ、乗組員は「『飛龍』乗員を救うため」と喜んで受け、たった1隻で危険な戦場に戻って行きます。
偵察機から連絡のあった地点へ着いた『谷風』ですが、既にそこに『飛龍』の姿はありませんでした。『飛龍』は沈没したものと判断した勝見艦長はその場から撤退しますが、遂に『谷風』は米軍に発見されてしまいます。
更なる戦果を貪欲に追う米機動部隊から、駆逐艦1隻に対しては過剰とも言える58機の攻撃隊が飛び立ちます。更にミッドウェイ島の基地からは12機のB-17C重爆撃機も出撃し、『谷風』は絶体絶命の危機を迎えます。
しかし勝見艦長は上空からのB-17Cの水平爆撃は早々当たる物じゃないと無視し、『谷風』目掛けて急降下爆撃を仕掛けてくる艦載機の動きに集中。その的確な操艦指示と、それに応えた航海士の巧みな舵取りでその全ての爆弾を回避しました。
『谷風』に向かって放たれた爆弾の数は実に137発。うち1発は至近弾となって破片が2番主砲塔の内部に飛び込んで6名の戦死者を出したのが唯一の損害でした。逆に『谷風』は対空砲火で4機の米軍機を撃墜する戦果を挙げました。
ミッドウェイ海戦後、『谷風』はソロモン諸島方面の輸送任務に参加し、10月26日の南太平洋海戦にも参加。しかし翌1943年1月15日、ラエ方面で作戦参加中に操艦の名手として一躍名を挙げた勝見艦長が戦死。その後はガダルカナルの撤退戦やトラック方面で護衛任務や輸送作戦に就きます。7月にはクラ湾夜戦に参加、僚艦と共同で米軽巡『ヘレナ』を撃沈する戦果を挙げます。
その後も護衛・輸送任務を続けた『谷風』ですが、1944年5月28日に新たな艦隊拠点となった東部太平洋のタウイタウイに進出。来るべき中部太平洋での日米決戦に備えます。
しかしこの拠点は早くも米軍に察知されており、多くの米潜水艦が日本軍の艦艇を狙って集まる危険な海域にもなっていました。
本来、潜水艦を狩る任務の駆逐艦が次々と撃沈され、危機感を感じた司令部は複数の駆逐艦で哨戒を始めます。『島風』『早霜』『磯風』と共に哨戒任務に就いた『谷風』ですが、6月9日、米潜水艦『ハーダー』の放った魚雷2本が命中して轟沈。更に海中で搭載機雷が誘爆して、脱出者に多数の死傷者が出ます。結果、艦長以下114名が戦死し、僚艦に126名が救助されました。
それは日米両機動部隊が最後の激突を行うマリアナ沖海戦の10日前の事でした。
本日のBGM:ALL MY LOVE(『陸上防衛隊まおちゃん』OP)
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